洪水被害は、チャオプラヤ川流域を中心に北部から中部に向けて拡大。
自然災害による経済損失額の大きさでは、
東日本大震災、阪神大震災、ハリケーン・カトリーナに次ぐ史上4位である。
タイは3,100社を超える日系企業が進出する日本のものづくりの一大拠点。
500社近い日系企業が極めて深刻な被害を受けた。世界銀行の試算によれば、
タイ全体の被害総額は約3兆5000億円。うち工業団地の被害額は約1兆7000億円。
サプライチェーン(供給網)は混乱し、タイ国内はもちろん、日本人の暮らしにも大きな影響を及ぼした。
深刻な被害から一刻も早い復興を目指す日本企業と現地の人々。
そして、YONEZAWAの社員が一丸となって困難に挑み続けた復興のストーリー。
雨の多い年だった。2010年の終わり頃から降り続く雨。しかしここは雨季と乾季の国タイ。多少の洪水や浸水には慣れっこである。「いつもより降るな」と思いながらも、「いつものこと」と誰もが気にも止めていなかった。
2011年10月の初旬頃、YONEZAWAのタイ拠点オフィスに日本本社から一本の電話が鳴った。
「アユタヤにあるお客さんの工場が浸水して大変なことになっているらしい。様子を調べてくれないか」
電話を受けたスタッフは耳を疑った。バンコク郊外北部サハラタナナコン工業団地。大手自動車部品メーカーだ。
「冗談やめてくださいよ」
そう言いつつ疑心暗鬼のまま被害を受けているという工業団地の部品メーカー担当者に問い合わせ、現場の写真を送ってもらった。工場一面に泥水に浸かった映像が飛び込んできた。一面に浮遊する工具やケース。隣の工場で生産しているシューズメーカーの靴までも大量に流れこんでいた。
オフィスにいたスタッフたちに状況を伝えると、彼らも同じようにお客様から連絡を受けていた。
「今日、こちらに来る予定あるなら来ないで、危ないから」
そんな連絡も受けていた。
工場建物内に浸水。水位は深いところで3mに達した。
タイ国土の1/3が浸水。浸水範囲は北部から徐々に南下していった。
「これは一大事だ」と思うと同時に「これ以上は広がらないだろう」という気持ちもまだどこかにあった。毎年30cm程度の浸水は当たり前。ある程度の洪水は想定内だ。
しかし事態は予想に反してさらに深刻化していった。洪水はじわじわと南下していった。「自分たちは大丈夫だろう」と思っていた工場が次々と水に浸かった。洪水はゆっくりと、そして次々と工業団地を飲み込んでいった。
「次のエリアで止まるだろう。しかし止まらない。でも次のエリアで止まるだろう。でも止まらない・・・これはまずいかもしれない」
YONEZAWAは「ものづくりの専門商社」である。その仕事は、ただものを売るだけに留まらない。ものづくりをする上で抱える様々な問題を解決に導くこと。被災した工場から、半ばパニック状態の担当者から次々と助けを求める電話が入った。
「例年、北部で3mも浸水するなんて考えられません。最初にお客様から浸水の知らせを聞いたときは私も信じられませんでした」と語るタイスタッフ。
すでに浸水してしまった北部の工場からは「電気が止まった」「水を抜きたい」といったオーダーが殺到。次第に「うちも危ないかもしれない」という工場から土嚢や機械・金型といった設備を避難させるためのオーダーが相次いだ。そしてその工場は1週間後には浸水。浸水に備え土嚢を積んでいた工場も、素人の積んだ土嚢では隙間からことごとく浸水していった。
水を避けるためデスクに積んでおいた重要資料も、それ以上の浸水で水に浸かった。誰もが予想していたよりも遥かに超える量の水が工場を飲み込んでいった。自動車、精密機器、家電など名だたる大手日本メーカーが沈んでいった。
洪水の南下とともに、工場からのニーズもエリアごとに南下していった。当然、YONEZAWAにはお客様からは、四方八方からありとあらゆる注文、相談が入ることになる。
2011年10月中旬に差し掛かった頃には、お客様からの依頼の電話はピークに達した。スタッフ全員が常に携帯電話で誰かと話している。電話で話している間にキャッチホンが入りまた話す。そんな状況だった。スマートフォンではバッテリーがもたないため、皆、一世代前の携帯電話に変えた。
一番多かった注文が発電機。たとえば夕方6時くらいに〈明日の朝までに発電機20台お願い!〉と連絡が入る。そこからタイ人スタッフたちの出番。どこで買えるか。いくらで買うか。運ぶ車をどうするか。それぞれが持っているあらゆるネットワークを駆使して情報をかき集めてくれた。
翌朝、タイ人スタッフたちが手配してくれたトラックに乗り込みお客様の元へ向かう。そこで行手を遮るのが渋滞だ。高速道路の高架は浸水を避ける自動車の避難場所と化し、三車線のうち二車線は駐車する自動車で埋まっている。
お客様からは〈まだか、まだか〉と携帯が鳴る。〈もう少しです〉といいながら車はまったく前に進まない。
ようやく高速を降りたと思ったら辺り一面水・・。料金所も水に沈んでいる。水の中をトラックでゆっくりと突き進む。到着したら電気が完全に止まっているので、発電機をまわし、ポンプをまわして水を掻きだす。毎日その繰り返しだった。
その年の4月にタイ赴任したばかりだったスタッフの一人は、その当時の様子をこう振り返る。
「一番印象に残っているのは、浸水した工場の中をボートで入って行ったときのこと。電気は止まっているので中心部は昼間でも真っ暗。暗闇の中をボートで懐中電灯照らして突き進む。臭いし見えないし。当時、ワニやヘビが逃げ出したという噂もあって。恐怖感がすごかった」
またあるスタッフは「自分がお客様と同じ立場だったら」と考えながら、混乱の中を奔走した。
工場にフォークリフトを届けるのに、バンコクから通常であれば車で40分くらいで到着できるところが、その時は6時間かかったという。工場に着いたら夜中で、電気も停電。まったく明りのない暗闇の中で作業をした。
DSI工場入口に、浸水を避けるため積み上げられた土嚢。しかし、翌日には土嚢の高さを遥かにこえる水位で浸水してしまうことに。
高速道路の高架上は浸水から避難する車で埋め尽くされた。走路が一車線に制限され常に渋滞に。普段なら数十分で到着する距離も半日以上かけて移動した。
「毎日が怒涛のようだった」と当時を振り返るタイ駐在の日本人スタッフたち。
お客様から「何とかしてほしい」という依頼が殺到する中で、実はYONEZAWAの工場も危なかったという。
YONEZAWAにはDSIというレーザー溶接の工場をバンコク近郊パトゥムタニに抱えていた。
「うちも危ない」。そう思ったスタッフたちは工場だけは守ろうと土嚢を手配しようとしたが、近場ではなかなか手に入らない。仕方なく遥か東のチョンブリ地区の工場から6時間かけて運んだ。
そんな中、タイ人スタッフは1台だけでも機械を残して残っている仕事を続けましょうと言った。その気持が日本人スタッフたちには嬉しかった。
他にも飲み水や生活物資、トラックやボードなど移動手段などお客様からの要望は様々だった。当然、普段の仕事では絶対に取り扱っていない物ばかりだ。
お客様の購買機能も止まってる。「お金は後でいいです」と、ひたすらものを買って納める。信頼関係だけでいろいろ動いた。
ある日、あるメーカーの担当者からこんな注文が入った。
「工場の敷地内に橋を作りたいんだけど」
工場から金型を逃がすために水に浸かった通路を横断するための橋を作りたいと。さすがにこれにはスタッフたちも戸惑った。
「いったいどう作ればいいんだ」
まずは工事現場などで仮設の足場を作る会社に問い合わせた。工事の交渉が成立。しかし翌日現場へ向かうと、水位が想定よりも高く足場が組めない状態だと言う。
次に考えたのが「コンテナを水に浮かべたらどうか」。しかしこれも、300mもの距離を組むのは不可能と分かりボツに。皆、頭を抱えた。
そこであるスタッフが思いついた。奥多摩湖のドラム缶橋。ドラム缶を浮かべてしまえばいいのではないか。
さっそく知り合いの建築会社に連絡。「ドラム缶を手配してもらえれば、うちで作ることができます」。必要なドラム缶は1,000本。当然、バンコクでの調達は不可能。チョンブリで手配したドラム缶1,000本を120km先の工業団地へ運ぶ。トラック1台で100本程度しか載せられないため何往復もした。
現場でドラム缶を1個ずつ水に浮かべて連結。その上に板を乗せ橋を施工した。
復旧作業に励む現地スタッフたち。苦しい時も笑顔で乗り切るタイ人スタッフたちに日本人スタッフも元気づけられた。
ドラム缶を浮かべて作り上げた橋(写真は水がかなり引いた後に撮影されたもの)。この橋のおかげで、浸水被害を受ける前に金型を外へ逃すことができた。
YEAの洪水復旧ユニフォーム
最終的にYONEZAWAは、お客様からのほとんどの要求に応えていた。
とにかくお客様が困ってる。ある日本人スタッフは当時をこう振り返る。
「逃げようと思っても逃げられなかったというのもある。逃げたかったですけどね。〈無理だ〉と一瞬思いながらも、タイスタッフたちが自分たちのコネクション使って、いろんなところ電話してくれて。そうすると何とかなる」
また被災した追い詰められた状況で、最初にYONEZAWAを頼ってくれる、という気持ちがYEAスタッフ全員の気持ちを動かした。
世界的な大企業のお客様が生きるか死ぬかの緊急事態にYONEZAWAを頼ってくれている。それが嬉しかった。だから、そういう気持ちに全力で応えようと思ったのだ。
タイ人スタッフたちの頑張りもすごかった。自分たちの家が浸水しているにも関わらず、休みなく活躍してくれたスタッフたち。タイ人スタッフの力を借りなければネジ一個買えない状態だった。
結果、お客様からは後々になっても評価していただくことになる。
2011年11月に入ると浸水した水は徐々に引き始めていた。水に浸かり駄目になってしまった設備を立て直すフェーズに入っていく。そこで待ち受けていたのは見積依頼の嵐だった。
とにかくメーカーと交渉して機械をおさえなくてはいけない。しかし現地のメーカーも同じように洪水で被害に合っている。そんな中、メーカーにはかなり無理な相談もしなければならなかった。
その一方で、タイで手に入らない機械は、逆にメーカーの日本拠点をはじめとするタイ国外から輸入することになる。その意味で、YONEZAWAの日本拠点との連携がまさに命綱となっていった。
その頃、日本ではタイ洪水対策室を設置。対策室には、タイ駐在経験者もメンバーに加わった。奇しくも水に浸かってしまった機械のほとんどが彼らが何年もかけて売ってきた機械だったという。
「私がタイ赴任時代にお世話になったお客様がみんな困っている。一人ひとりのお客様の顔を思い浮かべると〈何とかしなくてはいけない〉という気持ちで一杯でした」とタイ駐在経験メンバーは語る。
被災して浸水してしまった金型。
機械を輸出する際に、最も苦心したのは輸送船のブッキングだ。タイの製造業企業はどこも同じ状況だ。設備や物資をタイ国外から輸入する船で、手続きはかつてないほど難航した。
輸出入する機械は経済産業省に届け出を出さなければならない。提出資料の数も膨大だ。書類関係は全て日本拠点が受け持ったが、輸出手続きに関わる海外営業部の女子スタッフたちも奔走した。デスクには輸出申請に必要な書類が山積みされていた。
さらに機械の手配には、JAMTAT(※1)のネットワークも生きていた。組織の活動を通じて日本の名だたる機械メーカーのタイ拠点トップと腹を割って話ができる関係を築いていた。エンドユーザーが抱える難題も遠慮なくぶつけることができた。
この11月から3月までに売れた機械は大小合わせて約200台。作成した見積は通常時の約10倍。売上高でいうと1年前と比較して3.3倍以上にも上った。
12月になって水が引いた頃、タイ拠点に1本の電話があった。大手企業の現地社長からだ。
「折り入って相談がある。今から来てほしい」
相談とは、新工場の建設の件だった。新しい工場をつくりたい。その場所を探してくれないか。工場の新設は企業にとって極秘事項。その相談を受けること自体が、YONEZAWAがいかに信頼されているかの証だ。スタッフたちは候補地であるバンコク東部の工業団地を調べ上げ、工場新設に奔走した。
1年半後、彼らが探した土地に建てられた工場の竣工式に招待された。
式で社長の壇上での挨拶にこうあった。「この工場を建てるために土地をみつけてくださった方、有難うございました。よく見つけてくれました」。 それが今でも皆の気持ちの励みになっている。
洪水が残していった爪あとは、2年経った今もまだ完全には癒えていない。
とくに北部の工場を中心に、今なお復興に向けた作業が続いている。それでも、タイにおけるものづくりの機能がこれほどのスピードで回復していったのも、彼ら現地スタッフを中心とするYONEZAWAのスタッフたちの尽力が大きいだろう。
※1JAMTAT
海外最大の工作機械メーカーによる非営利団体。1993年に設立以来、日本の品質を追求しながら日本経済及びタイ経済に貢献する日系企業の情報交換と交流の場づくりを行っている。
http://www.jamtat.com
また彼らも、仕事において、また人生において、得難い貴重な経験をしたと口を揃える。
この経験で学んだことは山のようにあるが、何よりも大切なのは日々の人間関係。その大切さを皆プロジェクトを通じて痛感したという。洪水になったから何かしようとしても遅い。日々積み重ねてきたことが生きてくる。
お客様とメーカーと、普段から「誠実に一生懸命に」を常に心がけて築いてきた関係。だからこそ、本当に困ったときに真っ先に連絡が来る。またメーカーも、無理なお願いを優先して聞いてもらえると彼らは振り返る。
またお客様との信頼関係以上に社内のつながりと大切さもこのプロジェクトであらためて共有できた。日本人、タイ人関係なく、お互いを信頼し思いやれる関係が、苦しい時の支えになったという。
2012年の年末の社内パーティーの席。タイ人リーダーが全社員の前で語ったスピーチの際に言った一言がある。
「私にとってYEAは第2の家族なんです!」
皆が上手く表現出来なかった想いを全社員の前で、シンプルな言葉で代弁してくれたことに当時のタイ拠点スタッフたちは感動の涙を流した。
2015年、ASEAN統合に向けて、日本のものづくりのアジア進出はさらに加速していくだろう。その位置づけは、生産拠点としてだけでなく市場としてであり、重要度はますます増している。自分たちが機械を販売して、ものがつくられてアジアの市場で売れていく。ASEANが豊かになっていく。
日本人とタイ人は文化が違う。考え方も違う。大事なのはお互いに気を遣わせないこと。とにかく何でも話せる明るい雰囲気作りを常に心がけていた。厳しいことも言いますが、困った時にはお互いに助け合える。そんな精神をみんなが持ち続けてくれればいい
One for All. All for One.
タイ拠点、そしてYONEZAWA全体に息づくスピリッツが、どんな苦難をも乗り越えていけるエネルギーとなっているのだろう。